| 地域情報 | |||
| 諏訪神社 ・ 郡上の歴史 ・ 郡上市PTA連合会 | |||
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| 諏訪神社 | |||
| 近く(岐阜県郡上市八幡町相生亀尾島)にある神社。山中にあり長い階段を登ると見えてくる。 本宮は長野県諏訪湖畔にある諏訪大社。 諏訪大社の祭神は建御名方命(タケミナカタノミコト)と八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)。出雲の大国主命の国譲りの際、その御子建御名方神が建御雷之神タケミカズチノミコト)との力競べに負け、諏訪湖まで逃げて、その地に鎮まった。 諏訪明神はもと甲賀三郎という英雄で、地底の国から蛇体となって帰還したという伝承がある。古くは狩猟神、さらに農業神、のちに武神として信仰された。 鎌倉時代から武士たちの信仰を集め、全国に広まっていった。 諏訪大社は上社と下社の二社からなり、上社は前宮と本宮、下社は春宮と秋宮からなる。上社の本宮と下社の春・秋の両宮は本殿がなく、それぞれ四隅に「御柱」と呼ぶ大木を立てる。 寅と申の7年ごとに行われる御柱祭は、その木を取り替える勇猛な祭りとして知られる。また、冬季に凍結した諏訪湖に出現する氷脈は「御神渡」と呼ばれ、明神の妻問いによるものという。 |
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| 郡上の歴史 | |||
| ◆ 藤原高光 鬼退治伝説 ◆ 妙見神社の勧請
◆ 那比新宮
◆ 浄土真宗の流布 ◆ 稲葉氏入部 ◆ 八幡城の戦い ◆ 凌霜隊会津へ |
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| ◆ 藤原高光 鬼退治伝説 「天暦のはじめ(947)西の大岳に妖鬼が住み住民を悩ました。その姿や声が牛に似て恐ろしい有様であった。京都の御門に申し上げると、藤原高光をつかわされた。高光が大岳に登ると3メートルほどの夜叉がおそいかかってきたので、これを退治し都へ帰った。その後妖鬼の亡魂が山頂に留まり、住民を悩ましたので重ねて都へ申し上げると、再び高光をつかわされた。しかし妖鬼の亡魂は容易にみつからず、空しく月日を送っていた。高光は虚空蔵菩薩を信仰していたので、一心に祈るとお告げがあった。お告げに従って南岳で待っていると、3メートルほどの鳥がおそいかかったので、蕪矢で射落とした。高光は弓を宮に、矢を滝に納め、山を福部(ふくべ)が岳と名付けた。そして麓の6ヶ所に虚空蔵菩薩を祀り、道案内をした鰻を川に放ち大切にするよう命じた。」(「図説 郡上の歴史」より) |
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| ◆ 妙見神社の勧請 「東胤行が、承久三年(1221)郡上へ入部したときに、千葉家の氏神である妙見菩薩を下総(千葉県)から勧請して、剣(大和町)の阿千葉(アチバ)城の南の地に社を建ててまつり、東家(トウケ)の氏神とした。後に城を牧の篠脇山(シノワキヤマ)へ移したときに神社も牧へ移した。これが現在の妙見神社である。東氏は、天文十年(1541)に城を八幡の赤谷山(アカダニヤマ)へ移したが、氏神は移さず牧妙見に残しておいた。この神社は江戸時代まで妙見宮または妙見社と書いたが、明治維新のとき、神社の祭神に菩薩はいけないとされたので、祭神を国常立尊(クニトコタチノミコト)とし、神社名を「妙見神社」と改めた。しかし、祭神の変更は表向きのことで、御神体は現在も妙見菩薩であることに変わりはない。(「図説 郡上の歴史」より) |
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| ◆ 那比新宮 「那比新宮は八幡町那比にあって、藤原高光が創建した六社の一つといわれ、高賀山岩屋新宮(コウカサンイワヤシングウ)と称した。当社の縁起によれば、「七堂伽藍があり、拝殿は八間に十九間、右に弥勒寺、左に福安寺、顕蜜両学頭(ケンミツリョウガクトウ)、別当・社家(シャケ)40余軒、小社末社85宇(ウ)」あったといわれる。これを裏付けるものとして、慶西が奉納した正嘉元年(1257)の懸仏をはじめとして合計247面がある。また貞和二年(1346)に別当浄覚が勧請した金銅虚空蔵大菩薩があり、その造像についての木札がある。(図説 郡上の歴史」より) |
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◆ 浄土真宗の流布 「浄土真宗を郡上へはじめて伝えたのは、親鸞の弟子で、後鳥羽上皇の皇子とも伝えられる嘉念坊善俊である。彼は嘉禎年間(1235〜38)白鳥に来て真宗の布教を図ったが、当時は天台宗長瀧寺の勢力が絶大であったため、志を達せず、まもなく白鳥を去って飛騨白川郷に移った。今も白鳥に嘉念坊の碑があり、そのあたりをカネンボウと呼んでいる。また、下総国から郡上郡山田庄を加領されて来治した東胤行は、鎌倉に在勤中親鸞に帰依し、晩年にカリヤス(美並町)の戸谷川の辺りに庵居して真宗の教えを信仰した。 このように郡上に浄土真宗がもたらされたのは鎌倉時代であったが、それが流布するのは室町時代である。文明三年(1471)本願寺八世蓮如が越前国吉崎に来て、道場を開くと、真宗は近国に一挙に広がった。越前に近い郡上郡からも吉崎に赴いて蓮如の法弟となり、旧里に帰って真宗を伝えるものが多くなった。 文明五年前谷(白鳥町)の住人日置又左衛門が吉崎で蓮如の弟子となって西了と改め、郷里に帰って、西林坊を建て、これがのち歩岐島の悲願寺となるのをはじめ、蓮如及び実如の時代に郡内で創建または改宗された真宗の寺院は約50の多きを数える。(図説 郡上の歴史」より) |
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◆ 稲葉氏入部 「天正十六年(1588)両遠藤が左遷されたあと、秀吉の家臣稲葉貞通(サダミチ)が郡上を与えられて八幡城に着任した。貞通は、信長の武将稲葉良通(ヨシミチ)<一鉄>の子で、父の後を継いで美濃国曽根城主になり、本能寺の変の後秀吉に疑われた時には、兵糧弾薬を城に残して揖斐に退き謹慎したので秀吉は良通を許し、さらに郡上を与えることになった。 稲葉貞通は、長子彦六郎典通(ヒコロクロウノリミチ)を津保村(武儀郡上之保村)に、次子忠次郎秀方を中山城(八幡町相生)に配置した。八幡町相生に忠次郎の墓が残っている。 慶長五年(1600)の関が原の戦いにおいては、貞通ははじめ西軍に属し犬山城に入ったが、戦いの直前に東軍についた。八幡城の戦いに続く関が原の合戦のあと臼木(大分県)に転封されるまで、稲葉氏の郡上統治は12年間に過ぎなかった。この間に貞通は八幡城を根本的に改築した。現在の城跡の多くはこの時のものである。(図説 郡上の歴史」より) |
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◆ 八幡城の戦い 「慶長五年(1600)関が原の合戦がおきると、加茂郡小原(オバラ)にいた遠藤慶隆は、自分の居城であった八幡城をとりもどそうと考えた。美濃の国の武士の多くが、豊臣方の西軍につく中で、慶隆は徳川方の東軍につき、八幡城をとりもどす許可を家康に求めると、家康は大変喜んで、自分の部下にあたる金森長近に援軍をつけるように命じた。同年9月1日、慶隆の本隊は和良を通って愛宕山方面から、金森氏の援軍は二手に分かれ、一つは明方方面、もう一つは五町方面の三方から八幡城の総攻撃がはじまった。 「両軍とも多数の死傷者を出し、その日も暮れた。慶隆軍は城下に火を放ち、陣所にもどって夜営した。そこへ家康から郡上の地の安堵状が届いた。この安堵状によって郡上は、慶隆の所領に戻った。 しかし、この戦いを犬山で聞いた城主の稲葉貞通は、急いで軍を整えて八幡へ戻ると、和議で安心している慶隆軍と愛宕山で戦いとなった。慶隆は有力武士を5人失い、命からがら小野山の金森陣地にたどり着きm安堵状を示して稲葉貞通に城地あけ渡しを認めさせた。こうして、郡上は再び遠藤氏の支配地になった。」(図説 郡上の歴史」より) |
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◆ 凌霜隊会津へ 「慶応4年(1868)4月の江戸城無血開城に際して、徳川方の陸海軍将士が大量に脱走し、譜代諸藩の脱走兵もこれに加わった。 郡上藩凌霜隊もその一つであった。凌霜隊の進発は表面は脱走という形をとっていたが、実は徳川方逆転勝利の場合に備えて、佐幕派の中心会津へ救援隊を送るという藩の内命によるものであった。 しかしその内命の実体は、強硬に佐幕行動をとる江戸藩邸血気盛んな藩士たちの突き上げを受けて、緊急切迫した情勢の中での江戸家老朝比奈籐兵衛の臨機の対応であったと考えられる。 朝比奈家の息子で17歳の茂吉を隊長とする凌霜隊士45名は、4月10日江戸を発し、同月16日の小山戦争で大鳥圭介隊らとともに新政府軍大勝したが、続く宇都宮戦争で大敗した。その後3ヶ月に及ぶ塩原駐留の後、8月22日若松表の戦況不利により塩原を引き揚げ、日光口攻撃の政府軍に追撃されて退去を続けた凌霜隊は、九月初旬会津若松城に入り、白虎隊とともに西出丸を守った。9月14日に始まった、政府軍の総攻撃の激しさを、隊員矢野原与七は手記「心苦雑記」の中で「地獄の責め」表現している。 9月22日会津藩が降伏すると、凌霜隊士は海路郡上へ護送され直ちに獄舎へ入れられた。その後城下の嘆願で明治3年3月釈放されたが、世間の風は冷たかった。(図説 郡上の歴史」より) |